多遅摩毛理(たじまもり)

 昨年9月から「古事記を読む会」に行っていなかったので、改めて申し込みをし、参加した。すでに中巻は「垂仁(すいにん)天皇」の項まで進んでいた。

 垂仁の御子「本牟智和気王(ほむちわけのみこ)」は言葉を発しない子供だった。

「八拳髭心前(やつかひげむなさき)に至る(髭が生えるような大人の男になっても)まで真事(まごと)とわず(話せなかった)」この「髭が胸元まで生えるような大人」という表現は速須佐之男命(はやすさのおのみこと:スサノオノミコト)にもこうした表現が使われている。大人になっても泣きわめいたり、大暴れしたような「大人子ども」、言葉が遅い子は昔からいたのかもしれない。

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 常世国(とこよのくに:理想郷?」にあるという「時じく(ときじく)の香(かぐ)の木の実(このみ)(不老長寿の薬)」を探してくるように言われた多遅摩毛理(たじまもり)は当時の渡来人のひ孫にあたるらしい。「日本書紀」によると、垂仁天皇3年条に新羅からの渡来人 天日槍(あめのひぼこ)の記録があるそうだ。当時の日本はこうした渡来人を多く受け入れ、土地・身分・名前(それも歴史に残る様な)・職業を与え厚遇したという。多遅摩毛理はそうした渡来人の玄孫(ひ孫)で天皇の信頼も厚かったらしい。

多遅摩毛理はおよそ10年の歳月をかけて「時じくの木の実(=橘)」の「縵八縵(かげやがげ:葉のついた木8本)と矛八矛(ほこやほこ:葉を取った木8本)」を持ち帰るが、天皇はすでに亡くなっていた。嘆き悲しんだ多遅摩毛理は天皇の墓の前で「叫び哭び死にき(さけびおらびしにき)」その歳「壱佰伍拾参歳(ももちまりいそぢまりみとせ)=153 歳」だったとある。多遅摩毛理は天皇の崩御を知ると持ち帰った「縵八縵、矛八矛」の半分を大后(おおきさき)にたてまつっている。こんなところにも古代日本は男尊女卑ではなかったことが垣間見える。

 女性の天照大君を神々のトップとする日本は、武士が世を治める時代、明治になって西洋文明(主にキリスト教文化)の真似をするようになってから男性優位になったのかもしれない。

 女性だけではない。外国人に対しても門戸を広く開け、登用している。まだまだ国が幼く大陸の優れた文化や技術を持った外国人(という意識もあったのかどうか疑問)が必要な時代だったからかもしれない。神代から古代王朝(平安貴族はかなり唐・明・宋へのあこがれが強い)は渡来人の力を借りてできたと言ってもいい。西洋を見てみると、戦争で負けた異民族は徹底的に抹殺されるか奴隷・奴婢として扱われる。日本は融和させてしまう。日本の風土・気候・人々の気風が渡来人を温かく包んで日本を愛してやまない新人種に変えてしまうかのようだ。そう考えると「国」とか「国境」「民族」とは何だろうか、と思う。

 多遅摩毛理の墓は垂仁天皇陵の周辺壕内の小島だといわれている。臣下を自分の墓の隣に葬らせた(景行天皇が作らせたらしい)ということは日本の天皇家というのは西洋的な「支配者」とは違うということの表れだと講師は言っていた。

 現在、多遅摩毛理は「菓子神・菓祖」として信仰されている。

写真:宝来山古墳(ほうらいさんこふん):奈良県奈良市尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。垂仁天皇陵として治定されている。

「またその大后(垂仁天皇の后)・比婆須比売命(ひばすひめのみこと)の時、石祝(いわき:石棺)作りを定め、また土師部(はにしべ)をさだめたまいき。」

天皇の陵墓の周りに生きた人間を埋める風習をなくすため埴輪を作る専門職を定めた。

誰そ彼その2

茶道・香道・書・・・・などの勉強から得たもののメモ

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