本阿弥と古筆~「折り紙」と「極め札」

 室町時代、能楽を大成した世阿弥や、能阿弥や芸阿弥、立阿弥のように「~阿弥」という名(?)が登場する。この「~阿弥」たちは武家の棟梁・将軍に仕えて同朋衆と呼ばれた。その仕事は唐物の目利きや座敷飾り、立花や茶の湯に携わり日本文化の基盤を作ったといってもいい。

 この「~阿弥」は一遍の説いた教え(時宗と呼ばれた)で室町~戦国時代に爆発的に流行した浄土信仰の最大手の一派の信者が「〇阿弥陀仏」と名乗り、略したのが「〇阿弥」という言い方をするのだとか。(『逆説の日本史6』p.134)なので、同朋衆は基本、時宗の信者だったのかもしれない。

 この「~阿弥」関連で現代の私たちが思い浮かべるのは何といっても「本阿弥光悦」だ。名前からは室町期の同朋衆が祖先であったかも・・・と思わされる名だ。光悦は日蓮宗を信仰し、その作品の中に法華経の真理を込めているのではないかという研究者もいる。本阿弥の一族は刀剣の浄拭(ぬぐい)を家業としていたそうだ。刀剣の手入れの依頼が持ち込まれるうちに当然鑑定眼もついてくる。本阿弥家が鑑定し本物と認めれば「折紙」が与えられた。「折り紙」とは、奉書紙を二つ折りにし、そこに刀の銘、正真であることを示す文字、寸法、彫り物など特徴、代付、年月日と鑑定者(本阿弥家)の花押(かおう)を押したものだ。現代でもいいもの、本物だという時に「折り紙つき」という表現をする。 

 鑑定が必要なものには手鑑(てかがみ:見本として保存しておきたい書画を張り合わせたもの)や古筆切(こひつぎれ)がある。茶会が盛んになると床に飾るそれらの筆者が誰であるのかということが重要になってきたため鑑定家の出番になってくる。

 安土桃山~江戸時代にかけて烏丸光弘という破格の天才がいた。公家のエリートであり、細川幽斎からあの「古今伝授」(秀吉が利休の弟子である細川幽斎をおとがめなしとしたのは「古今伝授」本を持ち、この時代の和歌の第一人者だったからだという説がある)を受けた歌人であり、同時期の「寛永の三筆」と並び称されるほどの能書(彼の後継者がいなかったため「世尊寺流」のような流派にはならなかったが「光弘流」と呼ばれた*独特の書体だったらしい)だったという。ところがエリートでありながらボロ家に住み、さる女宮と密通をしたり・・・と、とうとう秀吉の時代にエリートコースから転落してしまった。しかし、家康の時代になって芸術家としての実力、才能を開花させた。能書であるがため書の鑑定眼にも長けており鑑定を依頼されることが多かったそうだ。しかし、元来の自由人であった光弘は歌の弟子である平沢弥四郎に鑑定術を教えるとあっさりその仕事を平沢に譲ってしまう。平沢は秀吉から認められ、秀次から「古筆」という姓を賜り、以来、「古筆了佐」として古筆鑑定を生業とした。古筆の鑑定書を「極め札(きわめふだ)」という。これも現代には*「極め付き」という言葉が残っている。ところが、日本の鑑定書は西洋の鑑定書のように厳密ではなく「これって〇〇が書いた字に似てるね」ということで「伝〇〇」というかなりアバウトな鑑定をしているらしい。それが日本的と言えば言えなくもない。

*「虫歌合図」:虫の絵と虫のような字を組み合わせたもの・・・らしい。

*「札つき」は反対に悪い意味

(「書と文学のサロン」の学びをまとめ加筆したもの)

誰そ彼その2

茶道・香道・書・・・・などの勉強から得たもののメモ

0コメント

  • 1000 / 1000