時間を無理やり作って、高い月謝を毎月納めて、ああでもないこうでもないと叱られて・・・・理不尽なお稽古事なんて現代に合っていない…などと若いころは思っていた。
確かに幼い頭で考えると理不尽なことが多いのだ。
ある時などはカルチャーセンターなどの教室で、決められた月謝で、決められた時間で、すっきり終わるというのが「合理的」なのだ、とカルチャーセンターへ通ったこともある。
でもやはり物足りなかった。決められた時間内で教えられるもの以外の稽古の準備の段階、師匠に連れられてあちこち行って覚えること、師匠に身近に接して得る小さなことの積み重ね・・・・そうしたことが金額に換算できない実りがあることに気づいてしまった。
家元からもらう許状というのも怪しげに思ったものだ。金さえ出せば許状なんてもらえる・・・と巷の噂をうのみにしていた時もあった。金を出せば…というところもあるし、そうではないところもある。指導者によって全く違うというのがわかると、それも理不尽だと思えてくる。しかし、自分の学びが深まってくると、許状の有無はもちろん、許状ににかかわりなくそれぞれの人の力量が見えてくるようになった。許状があるのに全く何も知らない人、姿が鍛錬されていなくて美しくない人がいることが分かったし、許状が励みとなり年ごとに素晴らしくなってくる人にも出会った。許状というのは一つの目安に過ぎないのだ。力を尽くして許状を得たことには「意味」があるのだ。それがわかるまで全くもって「和」の習い事にかんするあれやこれやには混乱しかないのでは?とも思っていた。
「和の稽古」は単に「技術の伝承」ではなく「理不尽」なものの中に、あるときフッと見えてくる「真理」をつかめるかどうかということに重点があるように思う。これは学校教育の中で培われた「善か悪か」とか「合理性」とか「論理的思考」なんかでは知ることができない深い世界が、「稽古を続ける」という単純なことの繰り返しの中で見えてくるということなのかもしれない。
ある人が言っていた「理不尽の中でもまれて苦しみ悩むことで人間が練られていく」
日本の「~道」とはそういった理不尽なもの、言い換えれば論理で説明できないものの中で己の小ささを知り、謙虚を学び、心穏やかに暮らせる「美しい」自分を作ることなのかもしれないと思う。
この「理不尽」に対処する自分を鍛えることが案外現代を生き抜く知恵となるようにも思う。
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