早めに行って9時半には根津美術館についたのに、会員の中では私が一番最後だった。会員以外の今日だけの茶会券購入者もずらりと並んでいて(しかも皆様礼装きもの・・・私も薄墨色に染めてもらった色無地一つ紋に山水画風の夏の袋帯)圧巻。
受付を済ませ、まず展覧席(披錦斎)へ。
(以下はメモ書き)
床・・・破墨山水画 惟馨周徳筆(雪舟の弟子)
本来のこのような墨絵の技法は「溌」といい、墨を飛ばして書くような技法。同じ技法が「破」と呼ばれるようになり、この画も「破」と呼ばれている。宴席など人が多く集まった席で勢いよく墨を飛ばし、別室で遠近感を付けるために舟や人物などを書き足し、その後披露するという楽しみ方があったらしい。訳の分からない墨絵がびっくりするような名画になり、当時の人は楽しんだに違いない。 (学芸員解説)
花入れ・・・手付籠(明代)
竹製の籠に漆を塗り重ねたもの。一見竹籠に見える。このような道具が残されているのは茶道具として使い、使うたびに適切な扱いを受け、どのように使うかが伝承されてきたため。道具とは使われなければ傷み、その使い方も忘れられてしまうものだ。
日本にこれだけ古いものが残っているのは使われてきたから。そして明治になって貴重な道具類が海外流出するのを防ぐため当時の根津嘉一郎のような多くの財界人が蒐集したためである。(学芸員解説)
『 60歳から本格的に茶道を始めた根津嘉一郎はそれまで蒐集していた道具があればすぐにでも茶会ができると考えていたそうです。ところが、実際やってみるとあれも足りないこれも足りない・・・茶道具屋も「これは誰それ様がお求めになるというお約束で・・・」となかなか希望の道具を持って来ない・・・となり怒りまくったということです。それでも、「茶の湯というものはそこまで奥が深いのか・・・」と真摯に向き合ったというエピソードがあるそうです。』
花・・・季のもの
香合・・・堆朱牡丹文(明時代)
合口造りの甲丸香合で、蓋裏には大輪の牡丹花を置き、これに葉を添えて彫りだしている。地は黄漆地でこれに朱漆を塗り重ね、牡丹花の写実的で伸びやかな彫法によって優美な小品となっている。内側と底は黒漆塗りで、底の右側には、「大明永楽年製」の銘が針刻されている。(根津美術館蔵品選~茶の美術編~)
釜・・・芦屋網絵鶴首釜(桃山―江戸時代)
首が細く立ち上がるいわゆる鶴首釜である。なだらかななまず肌に文様を表している。胴回りを幅広く帯状に区切り、正面には水流の芦辺に一羽の鶴が舞い降りる景色を、裏面には風のそよぐ日本の芒を大きく細緻な箆押し技法であらわす。芦辺の文様は、絵師の描いた下絵図を、釜師がその心をよく汲んで表現している。
首周りには細く網目文様を鋳出している。鐶付を斜めに付し、動きのある胴の文様によく調和しているが、形は不明瞭である。蓋は菊花双雀文様の銅鏡につまみを足している。鶴首釜としては紹鴎好みをはじめ、利休好み、表千家七世の如心斎好み、光悦好みなどが知られ、芦屋系に多く、胴の文様が秋草文のものも知られる。
(根津美術館蔵品選~茶の美術編~)
「2階の季節の室礼でこのお釜を見たときに鏡を蓋にすると言うことが大変印象に残っていて、本日拝見できたことがこの上なく貴重な体験となりました。」
風炉・・・唐銅
風炉先・・・遠州好七宝透
水指・・・・信楽一重口 銘「龍鱗」
どっしりとした威風堂々とした水指だった。
茶入れ・・・瀬戸尻膨 銘「青山」(室町時代)
尻膨形の茶入れで、全体に轆轤目がめぐり、あまり目立った釉景の変化はない。裾以下は土見せで、糸切が見られる。小堀遠州の命銘で、箱書も遠州が挽家に「青山(せいざん)」、箱にも「青山」と記し、さらに遠州の文が添い、これに命銘の由来が記されている。これも唐物茶入れと同様に「青山」の銘を持ち、根津青山翁の手に入るべくして入った茶入の一つ。(根津美術館蔵品選~茶の美術編~)
仕覆・・・白地緞子織留 富田金襴(山崎裂と伝わる)(根津美術館蔵品選~茶の美術編~)
茶碗・・・斗々屋
茶杓・・・甫竹作
学芸員の方のお話と図録からの道具の解説を書いておきました。図録には載っていないものも多数あり、収蔵品の多さを実感しました。
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